Wednesday 5 December 2012

イスラム教はユダヤ教とキリスト教を認めている

私達は、平和、友好と団結を必要とする時代に生きている。しかし、20世紀の顕著な特徴である緊迫状態や争いは、新世紀となった今でも続いている。そして、世界中の罪のない人々がそれに苦しんでいる。
 
団結と協力が差し迫って必要なときにもかかわらず、いくつかのグループは、深く根付いた二大文明間の争いを扇動 している。彼らが思い描く文明戦争は、人類に悲惨な結果を招くので、この問題は精査されなければならない。このような惨事を避けるための最善の方法は、文 明間の対話や協力を強化することだ。イスラム世界と、ユダヤ・キリスト教の西欧世界の間には根本的な違いはないので、これは難しいことではない。それどこ ろか、二者の間には共通点が多い。現状と国際問題の本質を考えると、二者は共通した価値観を持っているので、問題解決のために協力することは可能だろう。
 
今日、イデオロギー闘争は世界を分断している。しかしながら、一方にイスラム教徒、対立する他方にユダヤ・キリ スト教徒がいるという構図ではない。一方はアッラーの存在と唯一性を信じる人々、他方は唯物論や進化論のような反宗教的イデオロギーを信じる不信心者たち なのである。さまざまな不信心者たちのグループをイデオロギーレベルで打破する方法は一つしかない。それは、悪影響を及ぼす有害な反宗教的唯物論を根絶 し、道徳、幸福、平安、安全、繁栄に満ちた社会を推進することだ。これは誠実な人々、すなわち、敬虔なキリスト・ユダヤ・イスラム教徒がこの共通の大義の もとで一つになり、手を組むことによって可能になる。
 
過去、これら3つの宗教の信者たちはあらゆる闘争や論争を経験した。しかしそれは、誤った論拠や悪意に満ちた動 機を持った国家や民族や個人がこれら3つの宗教の中心となる信仰を無視して、自分たちの経済的・政治的利益を追求した結果である。アッラーによって啓示さ れたこれらの宗教の共通目標の一つは、争いに反対し、すべての人々の幸福、安全、平和と平安を確保することだ。
 
従って、すべての人々が正義・平和・支援を享受できるような世界を誠実な信者たちが探求することによって、この 対話や連携が成り立つのだ。その結果として生じる対話は、集会や会議だけにとどまらない。対話をすることによって、共通の価値観を提唱し、共通の大義のた めに戦い、共通の問題に対する恒久的な解決策を模索する人々の連携を強固なものにする。
 
イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒は、信仰、崇拝、倫理観といった共通の理念を持っており、共通の危機に 直面している。このように、啓典の民(キリスト教徒とユダヤ教徒)は、無神論や無信仰や社会・モラルの低下に反対する仲間の信者として、イスラム教徒と団 結することが求められている。誠実、良心的、寛容、親切で、融和的、理性的、高潔、平和的で、私達は皆同じ神を信じているのだと認識して道徳の範囲を広げ ようとするユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒はこの美徳を世界中に広めるべきだ。
 
私達イスラム教徒は、預言者モーゼ(彼の上に平安あれ)やイエス(彼の上に平安あれ)を愛し、尊敬しており、彼 らはアッラーに愛され、敬愛されている人々だということを知っている。そして、私達はすべての預言者を信じている。さらに、私達はユダヤ教徒やキリスト教 徒の信仰、価値観、伝統を尊重している。アッラーが私達に、啓典の民にも「共通の前提のもとに一つになる」よう呼びかけなさい、と命じられているからだ。
 
言ってやるがいい。「啓典の民よ、わたしたちとあなたがたとの間の共通のことば(の下)に来なさい。わたしたち はアッラーにだけ仕え、何ものをもかれに列しない。またわたしたちはアッラーを差し置いて、外のものを主として崇ない。」それでもし、かれらが背き去るな らば、言ってやるがいい。「わたしたちはムスリムであることを証言する。」(クルアーン3:64)
 
イスラム教徒は預言者ムハンマド(彼にアッラーの祝福と平安あれ)に啓示されたクルアーンだけでなく、それより も前にアッラーに啓示された啓典も信じている。それは、アブラハム(彼に平安あれ)の聖句、モーゼ(彼の上に平安あれ)に啓示された律法、ダビデ(彼に平 安あれ)に啓示された詩編、そしてイエス(彼の上に平安あれ)に啓示された聖書だ。しかしながら、これらは時間とともに改ざんされたために、正確な情報 (例えば、神への信仰、美徳、最後の審判の日、偶像崇拝の拒否)と不正確な情報の両方が含まれている。クルアーンの一節で次のように言っている:
 
かれは真理をもって、あなたに啓典を啓示され、その以前にあったものの確証とし、また(先に)律法と福音を下された。(クルアーン3:3)
 
誠にわれは、導きとして光明のある律法を、(ム-サーに)下した。それで(アッラーに)服従、帰依した預言者た ちは、これによってユダヤ人を裁いた。聖職者たちや律法学者たちも(裁いた)。アッラーの啓典の護持を託されていたからである。かれらはそれに対する証人 でもあった。(クルアーン5:44)
 
アッラーは次のように、啓典の民は信者であるとおっしゃった:
 
かれら(全部)が同様なのではない。啓典の民の中にも正しい一団があって、夜の間アッラーの啓示を読誦し、また (主の御前に)サジダする。かれらはアッラーと最後の日とを信じ、正しいことを命じ、邪悪なことを禁じ、互いに善事に競う。かれらは正しい者の類である。 かれらの行う善事は、一つとして(報奨を)拒否されることはないであろう。アッラーは主を畏れる者を御存知であられる。(クルアーン3:113-115)
 
啓典の民の中にも、アッラーを信仰し、あなたがたに下されたものとかれらに下されたものを信じて、アッラーに謙 虚に仕え、僅かな代価でアッラーの啓示を売ったりしない者がいる。これらの者には、アッラーの御許で報奨があろう。本当にアッラーは清算に迅速であられ る。(クルアーン3:199)
 
それゆえに、啓典の民に対するイスラム教徒の態度は、ユダヤ教徒、キリスト教徒の中にも真に信心深い人々がいる のだということを反映したものなのだ。人間の心の内を知っているのはアッラーのみだ。そしてアッラーは、ユダヤ教徒やキリスト教徒の中にもアッラーの報奨 を受けている者がいるということを啓示している。
 
アッラーは、すべての民に進むべき道と方法を作られた。歴史を通じて、アッラーは彼の戒律、命令、禁止事項を人 類に知らせるために預言者を遣わした。すべての預言者たちは、すべての人類にアッラーを信じ、アッラーを崇拝し、定められた戒律に従うよう呼びかけた。言 い換えれば、本来すべての宗教は、アッラーのいかなる相対者をも認めず、アッラーの報奨、慈悲を得るために、そして天国へ行けるように努力するという信条 に基づいている。すべての人類はアッラーの報奨を得るために、必ずアッラーの意思に従い、善行を行うことが求められている:
 
われは、あなたがた各自のために、聖い戒律と公明な道とを定めた。もしアッラーの御心なら、あなたがたを挙げて 1つのウンマになされたであろう。しかし(これをされなかったのは)かれがあなたがたに与えられたものによって、あなたがたを試みられたためである。だか ら互いに競って善行に励め。あなたがたは挙って、アッラーに帰るのである。その時かれは、あなたがたが論争していたことに就いて、告げられる。(クルアー ン5:48)

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